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最高裁判所第二小法廷 昭和38年(あ)1801号 判決 1965年3月26日

主文

本件各上告を棄却する。

理由

<前略>

被告人興和株式会社の弁護人向江璋悦、同下平桂の上告趣意第一点について。

所論は、憲法三一条違反をいうもので、その理由として、本件適用法令たる本法七三条のいわゆる両罰規定について、従業者の違反行為に対する事業主の過失を推定したもので、事業主において従業者の選任、監督に過失がなかつたことを立証すれば罪責を免れうる趣旨の規定であるとする見解があるけれども、右過失の推定自体、刑罰法における責任主義の原則に反するし、以上のような立証は事実上不可能であつて、結局事業主の無過失責任を認めるに帰するものであり、しかも、右過失推定についての明文を欠いているのであるから、右規定は、責任主義、罪刑法定主義を定めた憲法三一条に違反する、<中略>と主張する。

しかしながら、事業主が人である場合の両罰規定については、その代理人、使用人その他の従業者の違反行為に対し、事業主に右行為者らの選任、監督その他違反行為を防止するために必要な注意を尽さなかつた過失の存在を推定したものであつて、事業主において右に関する注意を尽したことの証明がなされない限り、事業主もまた刑責を免れ得ないとする法意と解するを相当とすることは、すでに当裁判所屡次の判例(昭和二六年(れ)第一四五二号、同三二年一一月二七日大法廷判決、刑集一一巻一二号三一一三頁、昭和二八年(あ)第四三五六号、同三三年二月七日第二小法廷判決、刑集一二巻二号一一七頁、昭和三七年(あ)二三四一号、同三八年二月二六日第三小法廷判決、刑集一七巻一号一五頁各参照)の説示するところであり、右法意は、本件のように事業主が法人(株式会社)で、行為者が、その代表者でない、従業者である場合にも、当然推及されるべきであるから、この点の論旨は、違憲の主張としての前提を欠き理由がない。<後略>

また記録を調べても刑訴法四一一条を適用すべきものとは認められない。

よつて同四〇八条により裁判官全員一致の意見で主文のとおり判決する。(奥野健一 山田作之助 草鹿浅之介 城戸芳彦 石田和外)

弁護人向江璋悦、同下平桂の上告趣意

第一点 原判決には憲法第三一条に反する憲法違反の点があるのでその破棄を求める。

一、そもそも「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪われ、又その他の刑罰を科せられないと規定する憲法第三一条は、実質的にはいわゆる罪刑法定主義をも認めた規定であることは、判例学説の等しく認めるところである。

しかして罪刑法定主義は、いうまでもなく「法律なければ刑罰なし」という原則であり、その刑罰の基本原理は「責任なければ刑罰なし」であつて、これは刑罰法における根本観念である責任主義を明らかにしたものである。そして憲法第三一条は明文をもつてこの責任主義の原理を規定したものであるということができる。このような考え方は一般的に首肯せられているところであり、現に最高裁判所は入場税法違反被告事件に対する昭和三二年一一月二七日大法廷判決(刑集一一巻一二号三一一三頁)において、刑罰法の分野に無過失責任主義を採用することは憲法の趣旨に反するとの見解を前提としている。かくて刑法第三八条第一項はこの理を体し、原則として故意を処罰することとし、例外として過失を罰することを定め、それ以外の原因に基く刑罰を許していないのである。つまり同条の「法律の特別規定」とは、罪刑法定主義に関する沿革的理由からも又刑罰の本質論からも過失を例外的に罰するという意味であつて、法律に規定さえすればなんでも処罰出来るということを意味するものではない。従つて無過失行為の処罰は結局憲法第三一条に反するものといわねばならぬ。

二、ところで原判決は本件について外為法第三七条を適用しているが同条は「法人の代表者又は法人若しくは人の代理人、使用人その他の従業者が、その法人又は人の業務又は財産に関し、前三条の違反行為をしたときは、行為者を罰する外、その法人又は人に対して各本条の罰金刑を科する」というのである。

この規定は従業者の違反行為について、業務主を処罰する、いわゆる両罰規定といわれるものであるが、このような規定が右にのべた責任主義をたてまえとする憲法の趣旨から許されるものであろうか。

三、この点について原判決は何らふれるところがないので、いかなる考えのもとに同条を適用したものかは不明であるが、この点については、すでに前記最高裁判決(昭和三二年一一月二七日大法廷判決刑集一一巻一二号三一一三頁)が旧入場税法一七条の三について事業主の過失を推定した規定である。従つて責任主義の原理に反するものではないと判断しているのでおそらくこれに従つたものと思われる。

しかしいわゆる両罰規定における事業主処罰の根拠を過失の推定であるというのは妥当でない、何故なら過失の推定ということを簡単に云うが、過失の推定なるものは、過失の存在を前提として之を立証するものではなく、過失があつたと仮定するにすぎないのである。もし過失が真に存在するのであればそれ自体を立証すべきが刑罰法の基本である。しかるに過失の存否不明の場合においても、又その立証のない場合においても、ただ従業者が違反行為をなしたという一事によつて事業主の過失を推定するというのは不当である。たとえ事業主において従業者の選任監督にぬかりはなかつたことを立証して責任を免れる道がのこされているとしても、存在することの立証に比して、不存在の立証が事実上いかに困難なことであるかはすでに何人も知るところである。しかも「監督をつくしたからといつて過失なしとはいいえない」とする判例が多々あることを思うとき、結局は事業主の無過失であることの立証は事実上殆んど不可能であると言わざるを得ない。そうとすれば事業主は真に過失なき場合にも刑罰を受けざるを得ないこととなつて、名は過失の推定と言つてもその実体は立派な無過失責任に基く刑罰規定であると言わねばならない。そもそもいかに行政的取締目的によるとは言え、いやしくも刑罰を科する以上は、刑罰の倫理的意味を捨てることを得ず責任の推定などということを安易になすべきではない。

故に外為法三七条の規定を事業者の過失を推定した規定と解することは、すでにそのこと自体において、又その実体においても、憲法第三一条の責任主義ひいては罪刑法定主義にもどるものと言うことが出来る。

ところでここで更に注意すべき点は、両罰規定とは言つても実はその規定の仕方にいくつかの種類があると言うことである。

つまり両罰規定には、単に事業主を処罰すると規定するものと、但書で従業者の違反行為防止につき相当の注意監督が尽されたことの証明があつたときは事業主を処罰しないと規定するものとがある。前者は所得税法七二条、風俗営業取締法八条、前記昭和三二年一一月二七日の最高裁判決の対象となつた旧入場税法一七条の三および本件外為法七三条等の如きがそれであり、後者に該当するものとしては道路法一〇五条消防法四五条等がある。

すなわち、このように両罰規定の中にも、それ自体において過失を推定する旨の規定をおいてあるものと、そうでないものとがあるのである。従つてこのように規定の仕方の異る両罰規定を、一つの理論のもとにかたづけてしまうことは妥当でない、確かに過失を推定する規定のある場合についてこれを過失推定の理論で根拠づけることも可能であろう(但しその妥当でないことはすでに述べたところである)。しかしかような規定のない場合にも、やはり過失推定の理論で解釈することは不当であつて、規定の仕方からみれば、むしろ、すなおに無過失責任を認めた規定であるというべきものである。この無過失責任の規定が憲法第三一条に反することはすでにのべたところであるが、かりに百歩ゆずつて過失の推定が違憲でないとしても、それならそれで本件外為法三七条の場合について言えば、法文上も過去の推定の規定を附すべきであつて、このような明文の規定のない場合にもなお過失を推定することは刑法の運用にあたつて官憲の恣意を封じ人権を侵害しないために、規定の内容を充分に明確なものにすることも又罪刑法定主義の直接の要請であるから、法律なければ刑罰なしとの憲法第三一条の規定に正面から違反するものと信ずる。

以上の理由により外為法三七条は結局憲法三一条に反する法律であつて、これを適用した原判決は破棄を免れぬものである。

四、仮りにもし、原判決が外為法三七条は無過失責任ないしは過失の擬制の規定と解したならば、なおさらのことである。

もしまた仮りに過失規定と解したならば、本件では検察官の過失の主張立証をしていないことは記録上明らかであるからいずれにしてもなお判決は破棄せらるべきものである。<後略>

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